夏になってから何度か 近くの市民プールに浮かびに行った。

水に浮かぶのは とても気持ちがいい。

うつ伏せの状態で浮かんで プールの底に映った光を見ている。


たまに少し潜ったり、思い出したように何本か泳いだりもしているけれど、ここでやりたいのはやっぱり浮かぶことだなと思う。

水の中で聞こえる音、水の色、青く遠くに見える誰かの足、きらきらする光、


私はこれがやりたかったんだな




今日は 海のいきものみたいに水と仲良くしている人に見惚れていた。

ああいうのは  技術なのか才能なのか 考えてみたけど、どうでもよくなった。


 水って  とても大きい。


ねこ

もうじき
猫と暮らし始めて一年が経つ。

私はまだ猫のいる生活を当たり前だと思えないというか、慣れないというか

こんな毛むくじゃらと一緒に暮らしていることを信じ難いな、と思う。


猫が家に来たばかりの頃は私と猫の喧嘩が絶えず、あの猫がいる家になんて帰りたくない、と思ったり、「本当に全然可愛くないな」と思ったり酷いものだった。

喧嘩して私が怒って部屋に篭ると猫がドアの前まで謝りに来たこともあった。そういう時の私は兄弟喧嘩をしているような気持ちでずっと捻くれていたりして猫は猫なりに結構気を使っていただろうな。


それで、気が付けば一年であった。
いつの間にか猫と喧嘩をしなくなった。
以前は何が原因であんなに毎日喧嘩をしていたのかも思い出せない。

お互いに成長した。多分。


さっき猫の真似をして「ニャー」と言ってみたら 「何それ、あんた、鳴き方下手くそだね」というような顔で私のことを見ていた。


今はお互いに気を使わないし、同レベルの生き物ふたりで暮らしていることが楽しい。

猫との生活に慣れるのはいつだろうな、とたまに考えたりしながら日々は進んでいく。

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人が死ぬということにとても興味がある。

きっかけは、私が2歳の頃 曽祖母が亡くなったことだった。

その後 人は死んだらどうなるのか、ということを 恐らく 周りのこどもよりも考えていたのではないかと思う。
大人にそういう質問をしても、安心させてくれようとするけれども納得のいく答えが出ることはなかった。
周りの大人達だって答えに窮していただろうと思う。

小学生の頃も日常的に考えていたし、そんなだから中学の歴史の授業で見せられる 人が亡くなるような戦争のビデオは拷問のようだった。
忘れようとしている死への疑問が 爆発するのだった。


高校に上がってもそれは続き、高校の最後の年にはとうとうご飯も食べられなくなるほどになり、学校にもあまり行けなくなっていた。


ただ納得のいく答えを知りたいだけなのに。それがどうしても上手く行かなかった。

それから騙し騙しその後を生きてみて

初めて疑問を抱いてから25年以上経った先月の半ば、元気だった祖父が急に入院し「もってあと2,3日 」と宣告された。


2,3日でなんとか覚悟を決めなければ、と気を張って祖父に会いに行った。
絶食で酸素マスクを付けながらもなんだか元気そうだった。

そして、宣告からじきに一ヶ月になろうとする今日も祖父はまだがんばって生きている。

私はしばらく仕事が出来ない状態で時間だけはあるので、思う存分 傍にいようと思った。
そして火が消えて行くのを見届けようと思った。


曽祖母に出会って生まれた疑問を、その息子である祖父が体を張って教えてくれるのだ、と思った。

それは 力強くて柔らかいものに包まれているような 守られているような 不思議なきもちで、自分の中で何かがストンと収まった。

これから何を感じるのかまるでわからないし、最後まで見届けたから何か答えが出るかと言えばそうではないかもしれない。
けれど、「生き抜く」ということはこういうことなのか、と

今はそれが少しだけわかったような気がする。


正体のわからない大きな不安がある

それはもう恐怖と言っていいくらいなのだけど


私はずっとそれから逃げ続けていて、逃げるしか方法がないと思い込んでいた。この間まで。


ところが、この間急に思い立ってそれと向き合ってみようと覚悟を決めたら、それだけなのに気持ちが解放されたのだった。

何とかして逃げ切ろうと思っていたこと自体、不安のかたまりだったのだなと気がついた。


その後、時間があればそれと向き合って最悪の場合を想像してみたりしているけれど、そこまで突き詰めるともう仕方がないじゃないか、という気分になる。


原因を突き止めて、向き合って、受け止めて、それについてやれることを全てやったのなら、もう悔いはないのだ。


それから2週間ほどで、穏やかな心が少しずつ戻ってきているように感じる。



なんだ、なんだ、それだけのことだったのかと思いもするけれど、その「覚悟」というのがなかなか決められないのだな。